周作人

周作人 
1885年 - 1967年
本名:周作人(しゅうさくじん)。晩年の著作では周遐寿の名前を使う。紹興出身。魯迅(周樹人)の弟。周建人の兄。1885年、都昌坊口の周家で生まれた。兄の周樹人と同じく、自宅近くの私塾「三味書屋」で伝統教育を受けた。1901年、南京の江南水師学堂に進学し、海軍管理を学んだ。1904年、紹興に帰って英語を教えることになり、英語本の翻訳を始めた。1906年、官費留学で日本に留学し、法政大学予科に進学。1908年から立教大学でギリシャ語を習得した。この時期、兄の周樹人や同郷の友人と共に章炳麟の講義を受けていた。1909年、下宿の賄い婦に雇われていた羽太信子に感情を抱き、周樹人の協力で結婚することができた。

1911年に帰国。1912年、浙江省教育司で視学(教育監督)を半年勤めた後、浙江省立第五高等中学(高校)で4年間英語を教えた。1917年、北京大学附属国史編纂処で編纂の仕事をし、1918年からは北京大学文科(文学院)で教授になった。この時期、與謝野晶子など日本文学を翻訳し、大学で日本文学研究の講演を行って日本文学の研究者としての地位を獲得した。

1923年に同居していた兄の魯迅と絶交。1937年、盧溝橋事件後、北京大学は北京を撤去し長沙に移転したが、周作人は北京に留まった。1939年には日本軍占領下の中華民国臨時政府が後ろ盾になった新しい(偽)北京大学の文学院長に就任した。1946年、対日協力者として逮捕され、首都監獄(南京老虎橋監獄)に収監されて懲役14年の刑を宣告された。1949年、国共内戦で国民革命軍が追い詰められる中、蒋介石が責任を取って中華民国総統を辞任。新しく総統代理に就任した李宗仁によって周作人は釈放された。1967年、文化大革命の混乱の時期、82歳で病没した。








仙台魯迅研究会

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