許広平
許広平
1898 - 1968年
本名:許広平(きょこうへい)広州番禺出身。ペンネームは景宋。周樹人(魯迅)の二番目の妻。閩浙総督・許応騤は大叔父である。許広平は広州高第街の名門の家で育った。1918年、天津直隷第一女子師範学校に入学し、1919年、天津で周恩来が主導する五四運動に参加した。1922年、北京女子高等師範学校国文系に入り、魯迅、許寿裳、易培基から指導を受けた。1925年3月から師である魯迅に手紙を書くようになり、助言を度々求るようになった。1926年卒業後、広東省立女子師範学校の訓育主任になった。この頃、廈門大学国文系で教授になったばかりの魯迅と手紙を交わして、師弟関係以外の感情が芽生えた。1927年1月魯迅は中山大学に赴任し、許広平は魯迅と広州で生活を始めた。1927年10月二人は上海に転居し、魯迅から日本語を教わった。1929年9月、魯迅との間に長男・周海嬰が誕生した。
1936年10月、魯迅急逝。1937年から魯迅の雑文を編纂し出版する。同年7月盧溝橋事件(七七事変)が発生し、日中戦争が始まった。8月第二次上海事変が起きてからは魯迅の遺稿などの保管に努めた。1941年12月7日、太平洋戦争が始まり、12月15日午前5時ごろ許広平は日本憲兵隊10数名に連行された。その後2ヶ月余りの拘禁され、さまざまな拷問を受けた。1942年2月28日、上海内山書店の店主内山完造と店員王宝良が保釈手続きをして、同年3月1日午後に許広平は釈放された。
太平洋戦争後、1945年に魯迅の弟・周建人と共に中国民主促進会の設立に参加した。1949年に全国婦女連合会副主席、1960年には中国文学芸術界連合会副主席の職についた。1956年、第2回原水禁世界大会に参加するため全国婦女連合会を代表して来日。1961年、仙台の魯迅記念碑除幕式に参加するため再び日本を訪れた。1968年、70歳の時に北京で病没した。