章炳麟
章炳麟
1869年 - 1936年
章炳麟(しょうへいりん)、本名は学乗。余杭(杭州)出身。号は太炎。中国では「章太炎」の名の方が通っている。章炳麟は幼少より考証学を学び、やがて学者になった。日清戦争の敗北を契機に、1895年富国強兵を目指す強学会に入会する。1897年、立憲君主制を主張する変法派(保皇派)の機関誌『時務報』の記者となり、自らの思想を主張した。しかし章炳麟は、儒教を国教化しようとする変法派と一線を画すようになた。1898年、戊戌変法の失敗により台湾に渡り、1899年には日本に亡命した。日本では梁啓超や孫文と交流し、やがて変法派の思想を捨て、革命派の主要論客になった。1902年、満州王朝への復仇心から「支那亡国二百四十二年紀念会」を東京で開催する計画を立てたが、日本政府の許可を得られず中止になった。
1903年、章炳麟は上海に戻り、蔡元培が結成した愛国学社に参加する。雑誌『蘇報』に「康有為を駁(ばく)して革命を論ずる書」を連載し知識人の間で人気を得たが、3年間投獄された。1904年、蔡元培、陶成章が中心となって設立した光復会に獄中の身でありながら深く関与した。1906年出獄後、孫文が総理(代表)を務める中国同盟会にも積極的に参加し、機関誌「民報」の主筆となって種族革命を主張した。1908年、章炳麟は東京小石川にあった自宅で『説文解字』の講義を行っており、留学中の周樹人(魯迅)など若い学生たちを指導した。
1911年、辛亥革命が成功すると帰国。1912年、大総統府高等顧問などに就任した。1913年、袁世凱により逮捕され、北京で 3年間軟禁生活を送った。1916年に「護法運動」が発生すると北京を脱出。再び孫文と合流して、中国国内を転戦した。1919年、「五四運動」が展開されると、章炳麟は時代の風潮に逆行して「国粋」・「尊孔読経」を唱えたため、五四運動の主要論者たちから軽蔑された。1931年、満州事変が起きると「抗日救国」を唱き、学生運動を擁護した。1936年、67歳の時に蘇州で病没した。