魯瑞
魯瑞
1858 - 1943年
本名:魯瑞(ろずい)紹興安橋出身。周樹人(魯迅)、周作人、周建人の母。魯瑞は、紹興郊外の役人・魯希曾の家で、二男三女の第四子(三女)として生まれた。伝統的習慣により教育は受けなかったが、性格は楽観的で明朗であった。魯瑞は好奇心が強く、兄と弟が塾で授業を受けている時、門外から聞こえる内容で学んでいたという。また、字を知らなかったが、人に尋ねて教わり、本を読めるまでに至った。1880年冬、魯瑞は22歳の時に2歳年下の周鳳儀と結婚した。 周鳳儀の家は紹興の越城では名家であり生活は安定していた。翌1881年には第一子・周樹人(のちの魯迅)を出産した。その後、1885年に次男周作人、1888年に三男周建人、1892年には四男周椿寿を産んだ。
1893年、周家の大黒柱であった舅・周福清は、清国の内閣中書という役職についていたが、科挙の不正にかかわって収監され一家の生活が傾き始めた。さらに同年冬から周鳳儀が病にかかり、1896年に肝硬変により逝去。1898年には末子・周椿寿が急性肺炎により6歳で夭折した。この時期、長男・周樹人は南京の学校に入学したばかりだったが、魯瑞は周家の行く末を案じて周樹人の嫁に、自分の境遇に似ている伝統的な家の娘・朱安を推薦した。周樹人も、母からの強い勧めで朱安と会わぬまま結婚の約束に同意した。ところが、1902年周樹人は日本で医学を学ぶため留学。1906年3月、周樹人は医者になることを諦めて仙台医学専門学校を退学したが、帰国もせず身を固める様子がなかった。そのため、1906年魯瑞は自らが病気だと嘘をつき、周樹人を一時帰国させて、朱安との婚礼を強引に挙行させた。
1909年、周樹人と同じく日本に留学中であった二男・周作人が日本人の羽太信子と結婚した。1911年周作人が羽太信子を伴って帰国し、1912年には魯瑞の初孫となる周作人の第一子・周豊丸(後に周豊一に改名)が誕生した。この時、羽太信子は自身の出産と子育てを手伝わせるため妹の芳子を日本から呼び寄せており、1914年には三男・周建人と芳子が結婚した。
1919年、魯迅は北京八道湾の家を購入し、魯瑞は息子たちの家族と一緒に北京に集団移住した。その後、1936年に55歳の魯迅が肺病死し、1942年には周建人の第二子で19歳の周豊三が拳銃自殺を遂げる不幸に見舞われた。1943年、86歳で逝去した。