魯迅の仙台留学( 1 )
概要:
新日本医師会『新医協』(2024.11.20発行)掲載
仙台と魯迅
ご当地外国人という言葉があるという。全国的な知名度はイマイチでもその地域では抜群の著名度、胸像や記念碑が設置され、人物研究は市民間でも取り組まれている外国人を指すという。例えば札幌のクラーク博士、仙台の魯迅、神戸の孫文、松江のラフカディオ・ハーン(小泉八雲)である。クラークやハーンが故国で大きく扱われているとは聞かない。孫文や魯迅は中国近代化の立役者の一人で中国内には大きな博物館や記念館が多数ある。
魯迅が仙台で著名なのは二〇世紀の初頭、1904(明治37)年9月~1906(明治39)年3月に、仙台医学専門学校に留学し、留学中彼に寄り添い授業ノートを添削した藤野厳九郎教授との交流を自ら『藤野先生』に取り纏めているからだ。藤野の故郷は福井県あわら市であることから、魯迅はあわら市でも著名で、藤野と魯迅との交流探索を多数の市民が試み、小・中学生のために独自の副読本が刊行され、藤野の遺品や関連する資料、同市と魯迅の故郷、紹興市との交流を展示紹介する藤野厳九郎記念館も存在する。
仙台の魯迅研究
仙台の魯迅研究は作品『藤野先生』と史実との関係を中心に、専門を異にする大学関係者と魯迅文学を愛好する学生や院生、留学生、そして市民との協同作業に中国文学の専門家が加わる形で進められてきた。
この調査は魯迅が逝去した翌年の1937年に始まる。戦後、魯迅の逝去20年、30年などを機に調査と併せて顕彰活動が進展し、1960年には「魯迅之碑」が建立されることになった。翌1961年4月の魯迅の碑除幕式には魯迅夫人、許広平女史も参列した。1970年代初めには日中友好協会宮城県連を中心に「仙台における魯迅の記録を調べる会」が組織され、同会は1978年に平凡社から『仙台における魯迅の記録』を刊行し、40年余の仙台における魯迅の足跡探索を総括した。これに続いたのは魯迅の仙台留学百周年を機に結成された東北大学魯迅研究プロジェクトであった。
調べる会の調査は当時存命であった魯迅同窓生からの聞き取りや、魯迅在仙時の新聞や仙台医専の古文書調査、魯迅の下宿先調査など、魯迅の学校生活や足跡そのものの探索を中心にしていた。プロジェクトは、北京の魯迅博物館から入手した魯迅の授業ノートの藤野の添削調査を中心に据え、解剖学の専門家を含む医学者の支援・協力を得て進められた。代表的な成果は『魯迅と仙台』(東北大学出版会、初版、2004年、改訂版、2005年)、『藤野先生と魯迅 ―「惜別」百年 ―』(同、2007年)であり、両者は中国語版も刊行された。ほかにもNPO法人仙台小劇場はこれらを踏まえて創作演劇「遠い火」を、仙台、あわら、北京、上海で上演することになった。
今年は魯迅の留学百二十年にあたることから日中友好協会宮城県連の呼びかけで「魯迅仙台留学百二十周年記念会」が発足し、80年を超える仙台における魯迅の探索を総括し次世代に継承するために『魯迅の仙台留学―『藤野先生』と『医学筆記』―』(社会評論社、2024年九月)が刊行された。
連載の課題
この連載では、こうした仙台の魯迅研究を次の3点を中心に紹介したい。
(一)魯迅は『藤野先生』で、医学を捨てる契機になったのは、仙台医専で細菌学の授業後上映された時局幻灯で、ロシア軍のスパイを働いたことから中国人が処刑される場面を見たことにあったとしている。中国では『藤野先生』は「回想的散文」(=史実に基づく自伝)として、日本では自伝的作風の「作品」(=小説)として読まれる傾向が強い。理解の相違は幻灯事件が史実に合致するか否かが出発点だ。事件が史実と異なる可能性があることを最初に確認したのは石田名香雄(東北大医学部第3代細菌学教室教授、第15代東北大総長)である。確認の具体的な内容はどうか。その後の検証はどうか。
(二)魯迅の『藤野先生』ではリアルに藤野の容貌や訛りまで語られている。2人の実際の出会い、ノート添削が始まった経緯、添削の実態、2人の間のエピソード、藤野の添削の狙いはどうか。『藤野先生』における魯迅の回想と魯迅のノートに書き込まれた藤野の添削との関係に齟齬はないのかどうか。魯迅のノートに関する現職の解剖学者の所見はどうか。添削をめぐって生じたとされる試験問題漏洩事件の実相はどうであったのか。魯迅の同級生の証言に関連する証言が記録されているなら、その内容はどうであったのか。
(三)このほかに、有名な惜別写真をめぐる多数のエピソード、この間撮影者が特定されており、たいへん著名な写真家であったことや、NPO法人仙台小劇場による太宰治の「惜別」とは異なる仙台における魯迅像など、連載では関連する原資料を紹介しながら話題提供を試みたい。
(魯迅仙台留学百二十周年記念会・代表 大村 泉)
(以下、詳細:会員限定)
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